デス・オーバチュア
第171話「アンブレラ」




丑三つ時、タナトスはクリスタルレイクへ向かう林道を歩いていた。
最近のタナトスは朝が早い……というか、朝が訪れる前に起き出している。
そして、朝が訪れる前にクリスタルレイクに向かうのが毎日の習慣と成りつつあった。
あるモノに逢うために……。
「……ん?……何っ!?」
だが、今日のクリスタルレイクはいつもと違った。
視界を白いモノが塞いでいる。
最初は朝靄かと思ったが、これは……『湯気』だ。
クリスタルが『温泉』になっている……!?
「……そんな……馬鹿な……?」
ちゃぽんという水音のした方に視線を向けると、そこには湯に浸かっている一人の女がいた。
「ふ……ふあぁ……」
女は湯の中から両手を出すと、両手を合わせて伸びをする。
「……ふう、とてもいい湯加減ね……貴方も一緒に入らない……?」
白髪を結い上げた女が、背後を振り返りもせずに、タナトスに声をかけてきた。
「……いや、一緒も何も……なぜ、ここが温泉に……?」
「温泉? それは定義的にどうなのかしら……湖の水をお湯に変えたら、それは温泉なのか、ただの巨大なお風呂なのか……それが問題ね」
「湖の水を湯に変えた!? なぜ、そんな……」
「だって、夏の終わり、秋の始めとはいえ、沐浴するには寒いじゃない……ああ、心配しなくても帰る時にはちゃんと元通りにしていくわ……」
「……そうか……それなら問題は……」
無いのだろうか?
それに、湖は足など着かない深さだったはずだし、力あるものなら転移装置として発動してしまうはずだったり……温泉となっていることに対しては疑問はいくらでもあった。
「さてと……」
女は湯から立ち上がるなり、タナトスの方へと振り返る。
スラリとした美人、身体や手足は、余分な肉がついたりせず形よく伸びているが……胸だけは豊満だった。
「フッ……」
女の髪が解け、腰まである長い白髪が拡がる。
リーヴ・ガルディアのような明るく光り輝く白髪とも、ランチェスタのように妖しく輝く紫がかった白髪とも違う、暗く深く輝くような白髪だった。
「……なるほど……」
妖しく透き通るような薄紫の瞳が、タナトスを射抜くかのように見つめる。
「……な……なんだ……?」
ただ見られているだけなのに、言いようのない寒気がタナトスを襲った。
女がふわりと宙へと浮かび上がる。
同時に、裸だったはずの女の姿が一変した。
紫がかった黒、いや、黒よりも冥(くら)い紫……ダークパープルのドレスをシックに着こなしている。
「……お前は……いったい……?」
「……名前?」
女は、見えない翼でもあるかのように宙を舞い、一瞬でタナトスの眼前に降り立った。
「さて、どう名乗ったものかしらね……?」
女の口元に上品だか意地悪そうな微笑が浮かぶ。
「いいわ、貴方にはちゃんと名乗ってあげる……私の名はアンブレラよ」
「……アンブレラ?」
「少なくともまったくの嘘、デタラメな偽名ではないわ……貴方だから教えてあげるのよ……主人にも仲間に教えていないこの名を……」
女……アンブレラの顔がスッとタナトスの顔に近づいた。
「なっ……よ……んっ!?」
アンブレラの唇がタナトスの唇を強引に塞いだ。
次の瞬間、タナトスの体中から黄金の光が爆発的に放たれようとする。
だが、それより一瞬速くアンブレラの右手がタナトスの鳩尾に深々と突き刺さった。
「……んんっ……フフッ……嫌ね、男の独占欲って……女を『物』としか思っていないんだから……」
アンブレラは唇をタナトスから離すと悪戯っぽく笑う。
良く見ると、彼女の右手は物理的にタナトスの体に突き刺さっているわけではなかった。
肉が裂かれているわけでも、血が流れているわけでもない、紫黒の輝きを纏った右手が、タナトスの腹部と同化するようにめり込んでいるのである。
「悪いけどこれは貰っていくわね……私が貴方より有意義に使ってあげるわ……」
一気に引き抜かれたアンブレラの右手には、七色の輝く欠片が握られていた。
「……リ、リセット……!?」
「それにしても……無防備過ぎるわね……これじゃあ……」
「なっ!?」
アンブレラの左手がタナトスの胸をそっと撫でる。
「簡単に殺せてしまうわ」
次の瞬間、タナトスの胸部が爆発するようにして、体が真っ二つに引き裂かれた。



「…………」
アンブレラは、己の左手をじっと見つめていた。
次いで、足下に倒れている黒髪の少女に視線を移す。
黒髪の少女……タナトスは意識こそ失っているようだが、爆散したはずの胸部も無傷だった。
「……貴方の仕業……ヒュノプス……?」
タナトスを見下ろしたままアンブレラは呟く。
その呟きに応えるように、森の中から竪琴の音が一瞬だけ聞こえてきた。
アンブレラはゆっくりと、背後……音の聞こえてきた方向に振り返る。
「…………」
そこには、竪琴を持った少年が一人佇んでいた。
「神界、魔界、天使界、悪魔界、星界……世界は広しと言えど、この私に幻を見せられる者など貴方ぐらいのものよ、眠神ヒュノプス……」
「…………」
アンブレラの賞賛に、少年は何の反応も見せない。
「なぜ、邪魔をしたなんて在り来たりで野暮なことは聞かないわ……寧ろ、感謝しているぐらいよ……こんなにあっさりと簡単に殺していい存在じゃないものね、『彼女』は……」
「…………」
少年……ヒュノプスは相変わらず何の返答も、反応も示さなかった。
「まあいいわ……じゃあ、私は退散させてもらうわ。もうすぐ夜が終わる……暁(アウローラ)がやって来る前に消えないとね……」
そう言うと、アンブレラは月を背にするようにして宙へと浮かび上がる。
「……基本的にお互い不干渉でいましょう。貴方と彼女の関係、目的、私は一切追求しない……その代わり、貴方も私が彼女に害を与えない限り、私の行動に干渉しない……それでいいわね……?」
「…………」
「その沈黙は肯定と受け取っておくわね……じゃあ、ヒュノプス、また会いましょう」
突然出現した無数の紫黒の光羽の嵐に包まれようにして、アンブレラの姿は掻き消えた。
「…………」
ヒュノプスは一瞬だけアンブレラが消えた月夜を見た後、視線を今だ眠り続けているタナトスに向ける。
「…………」
ヒュノプスは無言まま竪琴を奏でだした。
この世のものとは思えない美しき旋律が、深夜のクリスタルレイクに響き渡る。
「忘却の旋律か……綺麗な曲だね」
黒いロングコートをマントのように靡かせた、黒髪黒目の少年が姿を現した。
少年の隣には、黒一色の人形のような可愛らしい洋服を着た赤毛の幼い少女が控えている。
吸血王ミッドナイトの仮の姿ナイトと深紅の機械人形スカーレットだった。
「…………」
ヒュノプスは何も答えずに演奏を続け、やがて曲は終わりを迎える。
終曲と共に、ヒュノプスはタナトスに背中を向けて歩き出した。
「帰るのかい? 彼女と顔も合わせずに?」
「…………」
ヒュノプスの足の歩みは止まることはなく、やがて彼の姿は森の中へと消え去る。
「……意外にシャイな人なの……?」
「いや、あれはシャイというのとは少し違うと思うよ、ルシアン」
ナイトはスカーレットを昼間つけてあげた渾名で呼んだ。
「……そうなの?」
「ああ……それに……あれは『人』じゃないからね」
ナイトはそう言うと、口元に微笑を浮かべる。
「さてと、どうしようか? 『彼女』の後を追うのと、せっかく残していってくれた湯で温まるのと……どらちが有意義だと思うかい?」
「……確かにそれは難問なの……」
クリスタルレイクは今だに温かそうな温泉のままだった。



アンブレラは山林のど真ん中に出現した。
「……適当に跳んだけど……どうやら、剣の魔王と光の魔皇の居る山みたいね……」
地上に着地したアンブレラは、首のチョーカー(ぴったりとした首飾り)に埋め込まれている赤い宝石を右手で撫でる。
『AVATAR』
機械的な起伏のない声が聞こえた瞬間、宝石から放たれた赤い閃光がアンブレラの姿を掻き消すように呑み込んだ。
「……ふう」
赤い閃光が晴れると、そこにアンブレラの姿は無い。
代わりに立っていたのは、茶髪のストレートロングに赤い瞳をした、スラリとした長身の女性だった。
「……せっかくだから剣の魔王の顔でも見てこようかしら……?」
黒いタートルの上からでもハッキリと解る豊満な胸の上では赤い宝石が妖しく輝いてる。
「でも、下手にちょっかいをかけると……剣の魔王『だけ』はやばいかしらね……彼女は本物だから……」
同じ魔王という肩書きを持つ存在でも、あの魔王だけは『別格』なのだ。
雪の魔王や聖魔王などの二代目は所詮は子供に過ぎない。
魔王の中で注意すべきは、剣の魔王の実力と、風の魔王の知識だけだ。
「ああ……そういえば、風の魔王の後釜に収まった若輩もいたわね……」
彼女から見て、そんな若輩者は子供ですらない、赤子がいいところである。
「……そうね、やっぱりさっさと帰って寝ましょう……もうすぐ夜の時間が終わってしまうし……」
「ほう、俺の『物』に手を出しておいて、そんな簡単に帰れると思っているのか?」
彼女が歩き出そうとした瞬間だった。
背後から莫大な光輝が襲いかかり彼女の姿を呑み尽くす。
「ふん」
光輝を放ったのは、金髪に氷のような青い瞳の青年……魔界の双神の一人、光の魔皇ルーファスだった。
「酷いわね……いきなりなんて……」
光輝に呑み込まれて消滅したはずの女が、ルーファスのすぐ後ろにいつのまにか立っている。
「はっ! 名乗りあってから攻撃しろとでも?」
「ええ、私の名前は紫月久遠(しげつ くおん)、ただの人間の女で貴方の敵では無……」
「大嘘つくなっ!」
ルーファスは左手で無数の光条を一つに束ねると、背後を振り返りながら、横に思い切り振り切った。
光条の束が、進行上の大木を全て両断しながら、紫月久遠と名乗った女へと迫る。
「くっ……」
光条の束に薙ぎ払われようとする直前、赤い閃光が久遠を包み込んだ。
「ああん?」
ルーファスは手応えに違和感を覚えながらも、そのまま光条の束を振り切る。
「……ああ? 俺の光輝を引きちぎるだと?」
光条が全て短くなっていたのだ。
久遠の立っていた場所にギリギリ届かない長さで先端が無くなっているのである。
切ったというにはあまりに乱暴な切断面だった。
引きちぎった、あるいはねじ切ったようにしか見えない。
「……まったく、まだ貴方には手を出す気はなかったのに……」
赤い閃光が消え去ると、紫月久遠の代わりに、ダークパープルのドレスをシックに着こなした白髪に薄紫の瞳の美人……アンブレラが紫黒に輝く左手を横に突き出していた。








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一言でいいので、良ければ感想お願いします。感想皆無だとこの調子で続けていいのか解らなくなりますので……。



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